江洪杰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 23:33 UTC 版)
江洪杰 | |
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『中華民国維新政府概史』(1940)
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プロフィール | |
出生: | 1876年 |
死去: | 不詳 |
出身地: | ![]() |
職業: | 外交官・政治家・実業家 |
各種表記 | |
繁体字: | 江洪傑 |
簡体字: | 江洪杰 |
拼音: | Jiāng Hóngjié |
ラテン字: | Chiang Hung-chieh |
和名表記: | こう こうけつ |
発音転記: | ジアン ホンジエ |
江 洪杰(こう こうけつ)は、中華民国の外交官・政治家・実業家。中華民国維新政府の要人。字は子因。
事績
1897年(光緒23年)、山東省の法律学校で教官をつとめる。1899年、同省の県長に転じた。1907年(光緒33年)、江洪杰は副領事として横浜に赴任する。1909年(宣統元年・明治42年)、明治大学法科を卒業、法学士の称号を取得した[1]。
1912年(民国元年)、外交総長秘書に任ぜられる。1915年(民国4年)、駐日公使館一等書記官に転じた。1930年(民国19年)4月時点で公使館参事官の地位にあったほか[2]、1921年、1922年、1925年、1930年、1931年に、それぞれ臨時代理公使をつとめた。1931年(民国20年)、駐日公使に昇格、後に駐日代理大使にもなっている[3]。
梁鴻志らによる華中での親日政権樹立活動に、江洪杰も参与していたと見られる。しかし1938年(民国27年)3月28日、中華民国維新政府が創設された当初には江が要職に就いたとの情報が無い。約4か月後の7月26日、梁が行政院長に正式就任し、交通部長の兼任から解除されると[4]、江が後任の交通部長に特任された[5]。
1940年(民国29年)3月30日、維新政府は南京国民政府(汪兆銘政権)に合流したが、江洪杰については同政権で要職に就いていないと見られる。経済界においては、日中合弁の中華輸船株式会社で社長となっていることが確認できる[6]。
戦後、江洪杰は日本でGHQに逮捕され、中国に送還された後、再び日本に戻ったという[7]。
注
参考文献
- Who's Who in China 5th ed.. The China Weekly Review (Shanghai). (1936)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 明治大学編『明治大学一覧 付・卒業生年度別 昭和十二年十一月』明治大学、1937年。
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