氷室の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/09 15:28 UTC 版)
次に額田大中彦皇子の名が現れるのは、大鷦鷯尊が仁徳天皇として即位したのちの話である。 是歳(ことし)、額田大中彦皇子、闘鶏(つけ)に猟(かり)したまふ。時に皇子、山の上(うへ)より望(おせ)りて、野の中を膽(み)たまふに、物(もの)有り。其の形(かたち)廬(いほ)の如し。乃ち使者(つかひ)を遣(つかは)して視(み)しむ。還(かへ)り来(まうき)て曰(まう)さく、「窟(むろ)なり」とまうす。(この年、額田大中彦皇子が、つげ(奈良県旧都祁村、現奈良市)に猟に行かれた。山の上に登って野の中を見られると、何か物があり、廬(いお)の形であった。使者に調べさせると、帰ってきて「窟(むろ)です」という)訳:宇治谷孟 そこで、闘鶏稲置大山主(つけ の いなき おおやまぬし)を呼んで、何の洞窟かと尋ねたところ、「氷室です」という返事があった。さらにその用途をきくと、「一丈あまり土を掘って、萱をその上に葺き、厚くすすきを敷いて、氷をその上に置いて使うもので、夏を越してもなくならず、暑い月に水酒に浸して用いるものです」という答えだった。皇子はこの氷を御所に献上し、天皇はこれを喜ばれた。以後、冬になると必ず氷を貯蔵し、春分になって始めて氷をくばった、という。 なお、この氷室は『延喜式』の「主水式」には「大和国山辺郡都介一所」とあるもので、『大和志』には山田村にあって、氷室の祠は隣村の福住村にあった、という。現在の奈良県天理市福住町に当たる。「主水式」によると、供御の氷を奉納するのは、4月1日から9月30日まで、としている。
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