殺生関白について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:23 UTC 版)
「 さるほどに、院の御所崩御と申すに、鹿狩りを御沙汰候。法儀も政道も正しからざるあひだ、天下の政務を知ること、ほどあるべからずと、京わらんべ笑つて、落書にていわく、 院の御所にたむけのための狩りなればこれをせつせう関白といふと、かように書きつけ、立てをきさぶらひし。 」 —太田牛一(『大かうさまくんきのうち』より) 正親町上皇崩御の諒闇中に狩りをしたことが不道徳であるとして落首されたという話を元にして、“せつせう関白”、つまり摂政と殺生をかけて、殺生関白と呼ばれるようになったというが、『太閤さま軍記のうち』におけるこの記述が唯一の出典となっている。しかしながら落首が実際にあったかどうかは不明であり、狂歌は他に出典を見いだせず、句も後世の作ではないかという説がある。 また注意して読めば、秀次が殺生した対象は“鳥獣”であり、言及されたのは仏教的な破戒であって、歌に詠まれた内容は厳密には喪が明けないうちに狩りをしたことを非難されたに過ぎないのである。しかしほかの悪行と列記されることで読み手には拡大解釈が促された結果、後年の『甫庵太閤記』になると“せつせう”が座頭殺しの場面でも登場し、その後『太閤記』では殺生の意味がより人殺しに近い意味に置き換わって、いつの間にか殺生関白は秀次暴君論へと発展した。これは、悪行非道の人物であれば誅されても当然、あのように眷族すべて皆殺しになったからにはとんでもない大罪を犯したのであろうとの思い込みであり、秀次の文化人としての側面を評価する小和田哲男はこれを太田牛一による“呪縛”と表現している。
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