死亡時期について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 18:28 UTC 版)
欽宗は1161年6月に没したとされているが、一方で欽宗の子孫が欽宗没後の翌7月己丑、海陵王によって殺害され子孫が断絶したとされている。海陵王は同年12月に殺害されているため、1161年6月の死去が事実とすると、わずか1年の間でそれだけの事件が立て続けに起こったことになる。また、『金史』「海陵本紀」では、正隆元年(1156年)6月庚辰に「天水郡公趙桓薨」と記載されており、『宋史』と『金史』の記述には食い違いが生じている。 南宋末の通俗説話『宣和遺事』では、1156年に海陵王の命令によって57歳の欽宗と82歳の遼の最後の皇帝天祚帝(正史では1128年没)が撃鞠(ポロ)の競技の試合をすることになり、欽宗は落馬して馬に踏まれて死亡し、仰天した天祚帝は逃走するが、射殺されてしまった、と記載されている。この死期の食い違いについて、『金史』列伝第67では、1156年の欽宗の死去が、5年後に南宋に伝えられたとしている。
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