死亡時期についての謎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/06 06:04 UTC 版)
これから後、家定の名前は良質の史料では全く確認が取れなくなり、天正18年(1590年)の小田原征伐の時点では既に交名に名前がなく、小田原以前に没していた可能性がある。他に『太閤記』では小田原後も生きていたものの、秀吉政権下で冷遇され、竹を切り、釘を売って生きていたが、惨めさに耐えかねて切腹して果てたという。ただ、前述のように一切の記録が途切れており、そうした事実は確かめられない。 また、久波奈名所図会の上巻によれば慶長16年5月1日(1611年6月11日)に京都の大徳寺内で切腹して果てたという記述も残るが、他の史料で裏付けが取れない上にあまりにも空白期間が長く、そのまま信用する事は出来ない。
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