武節郷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 03:09 UTC 版)
旧稲武町、旧名倉村、旧津具村、豊根村、旧富山村といった北設楽郡北部の町村、及び長野県下伊那郡根羽村を含めた一帯は、古来より加茂郡に所属していたとされる。中世後期には加茂郡足助荘のうちにあり、当該地域の神社には足助荘の古名が記された棟札がいくつか残されているといい、棟札からは武節郷などの郷名も伝わっている。当該地域の郡籍変更の時期については、1641年(寛永18年)頃・1678年(延宝6年)頃などとされる。 武節郷の範囲は現在の稲武地区域の大部分に相当すると考えられ、名倉川両岸の11の村々が所属していた。室町時代には土岐氏流菅沼氏の支配下にあり、戦国期にかけては武田氏・今川氏・松平氏による、当郷を巡っての攻防が繰り返された。天正期には武節郷の11ケ村の大庄屋が武節町村に置かれていたというが、1636年(寛永13年)に生じた武節町村と稲橋村の争論が元となり、武節町・小田木・川手・黒田・桑原・御所貝津の6ケ村が川西組、稲橋・大野瀬・押山・夏焼・野入の5ケ村が川東組に分けられる。川西組には武節町村に庄屋山口惣兵衛が置かれたが、不正を働いたかどで三河代官鳥山精元に罷免され、以後は各村に庄屋が置かれたという。
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