橋口勇馬とは? わかりやすく解説

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橋口勇馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/28 05:41 UTC 版)

橋口 勇馬(はしぐち ゆうま、1862年4月13日(文久2年3月15日[1]) - 1918年大正7年)1月11日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

薩摩藩士・橋口伝蔵の息子として、現在の鹿児島市で生れる[1][3]陸軍士官学校幼年生徒、士官生徒を経て、1883年(明治16年)12月25日、陸士(旧6期)を卒業し歩兵少尉任官[2][4]近衛歩兵第4連隊付となる[1][5]。1894年(明治27年)11月、歩兵大尉に進み近衛歩兵第4連隊中隊長に就任[1]。1897年(明治30年)5月、参謀本部出仕となる[1]清国差遣を経て、第5師団司令部付となり、1901年(明治34年)4月、歩兵少佐に昇進[1]。参謀本部付、近衛歩兵第4連隊付、同連隊大隊長を務め、1904年(明治37年)1月、清国差遣となり諜報活動に従事[1]。兼大本営付を経て、1904年7月、満州軍総司令部付となり日露戦争に出征し、馬賊を用いてロシア軍の後方攪乱を行うなどの戦功を挙げた[1][6]。1905年(明治38年)3月、歩兵中佐に昇進[1]

1905年12月、参謀本部付となり、関東総督府付、歩兵第54連隊付を経て、1907年(明治40年)11月、歩兵大佐に進級し歩兵第62連隊長に就任した[1][7]歩兵第40連隊長を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍少将に進み歩兵第13旅団長となり、シベリア出兵の際には満州里の居留民保護に従事した[1][2][7]。1917年(大正6年)8月に待命となり、同年12月、予備役に編入された[1][2][7]

栄典

位階
勲章等

親族

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、123頁。
  2. ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』570-571頁。
  3. ^ 『薩摩の武人たち』153頁。
  4. ^ 『官報』第151号、明治16年12月27日。
  5. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』67、70頁。
  6. ^ 『市ヶ谷台に学んだ人々』15頁。
  7. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』70頁。
  8. ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
  9. ^ 『官報』第3444号「叙任及辞令」1894年12月19日。
  10. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  11. ^ 『官報』第1624号「叙任及辞令」1917年12月29日。
  12. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1889年12月29日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 桑原嶽『市ヶ谷台に学んだ人々』文京出版、2000年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 浜島速夫『薩摩の武人たち:三代軍人列伝』南日本新聞社、1975年。



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