梁熙を撃破
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)
9月、呂光は宜禾まで到達した。当時、前秦の涼州刺史梁熙が姑臧を統治していたが、彼は呂光の真意を測りかねていたので、その到来を大いに憂慮し、境を閉じて帰還を阻もうと考えた。前秦の高昌郡太守楊翰は梁熙へ、呂光が流砂を越える前に高桐・伊吾の二関で迎え撃つよう勧めたが、梁熙は従わなかった。呂光は楊翰の謀略を聞いて憂慮し、さらに苻堅の大敗を聞いて長安が騒乱に陥ると考え、軍をここに留めようと考えた。だが、杜進はこれを諫めて「梁熙は文雅であると評判ですが、機鑒が不足しております。進言を納れて従う事など出来ず、憂うに足る存在ではありません。上下の心は一つではないと聞き及んでおり、ここは速進すべきです。進んでもし勝利を得られなくば、過言の誅を受ける所存です」と述べると、呂光はこれに従って進軍を続けた。 同月、高昌まで到達すると、楊翰は郡ごと降伏して迎え入れた。さらに玉門まで進撃すると、梁熙は各地へ檄文を飛ばし、呂光が命を違えて自らの独断で軍を返した事を責めると共に、子の梁胤と振威将軍姚皓・別駕衛翰に5万の兵を与え、酒泉において進路を遮断させた。だが、敦煌郡太守姚静・晋昌郡太守李純はこれに応じず、郡を挙げて呂光に降伏した。呂光もまた涼州各地へ檄文を飛ばし、梁熙に赴難の誠が無く(苻堅の危機を救おうとしない事)、勝手に帰還を阻もうとしているとして、その罪を数え上げた。そして彭晃・杜進・姜飛らを軍の前鋒として安弥に進ませ、梁胤を攻撃して大いに敗った。梁胤は配下の数百騎と共に東へ逃走したが、杜進はこれを追撃して捕らえた。ここにおいて四山の胡人はみな帰順を申し出た。武威郡太守彭済は梁熙を捕らえると、呂光へ降伏を請うた。
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