桧ヶ根の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:20 UTC 版)
羽柴秀次勢より前にいた堀秀政勢に、第四隊に参加していた長谷川秀一の遣いから秀次勢の敗報が届いたのは約2時間後のことであった。堀勢は直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を組み込んで桧ケ根に陣を敷き、迫り来る徳川軍を待ち構えた。秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、檜ヶ根(桧ケ根、長久手市)辺りで堀勢を攻撃したが、返り討ちにされて逆に追撃された。徳川軍支隊の死者280余とも500人ともいう。 織田徳川本隊は、9日2時に小幡城を出発して東へおおきく迂回し、4時30分ごろ権堂山付近を過ぎて色金山に着陣。そこで別働隊の戦勝と敗退を知り、岩作をとおり富士ヶ根へ前進して堀秀政勢と池田恒興・森長可勢との間を分断した。この時、秀政は家康の馬印である金扇を望見し、戦況が有利ではないことを判断、池田と森の援軍要請を無視して後退した。
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