栗谷瀬の渡し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 20:38 UTC 版)
栗谷瀬橋が開通する前は栗谷瀬の渡しと呼ばれる船1艘を有する私設の渡船場であった。渡船がいつから存在したかは定かではないが、1750年(寛延3年)頃には既に存在していたと言われている。渡船場は栗谷瀬橋の上流側にあり、11月から4月までの冬場の渇水期は、縄等を用いた繰船を運行し、周辺の他の渡船場で見られるような仮橋の架設は行われなかった。また、夏場の増水期は船頭2名が乗船し、流れに逆らいつつある程度遡行し、そして流れに乗りながら対岸へたどり着く操舟を行っていた。1907年(明治40年)までは船2艘を運行し、馬渡しも行われていたが、右岸側が崩壊したため馬渡しは取りやめ、船一艘の運行に変更された。渡船料は大正末期では徒歩は3銭、自転車は5銭で、戦後(戦争直後)では徒歩は5銭であった。また地元住民に対しては穀寄せと呼ばれ、年間一升の麦を納めれば無料であった。渡船で使用する船は皆野村と国神村の両地区によって作られ皆国丸(かいこくまる)と呼ばれた。晩年は町営化され皆野が管理する渡船場で、皆野側に船頭小屋が設けられていた。この渡船場は1958年(昭和33年)の狩野川台風の洪水で、皆国丸が流失したことにより廃止されている。現在渡船場への道は国神側(左岸)の道が現存する。
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