柩とはひきつぐことか雁渡る
作 者 |
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季 語 |
雁 |
季 節 |
秋 |
出 典 |
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前 書 |
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評 言 |
柩を幾度覗き込んだことだろうか。そして、幾度別れを言っただろう。仕事関係、友人の親、親類、祖父母、兄、父と、かなり遠い関係から極近い存在の柩を覗き込んできた。感慨は父の時が一番深く大きいように思っていたが、20代で亡くした兄の時の方が大きかったと思うようになってきた。父の時の50代と20代とでは心の容量に大きな差があったことによると思われる。小さな心に刻まれた大きな出来事は、今もリアルな兄の夢を沢山見させてくれる。 高橋比呂子はこのような柩を、ひきつぐことだとある日ある時閃いたのである。或いはゆっくりと湧き上がってきたのかも知れない。どちらにせよ「ひきつぐこと」が発見である。何を引き継ぐのかは書かれていない。しかし、柩の中に横たわる人から何かを引き継ぐことは間違いない。あとは読者が感じる以外にない。 筆者の在所では、出棺時に親族の若い者が柩を担ぎ、その家の庭先で時計の反対回りに回転させる。数は4回程で読経の中をゆっくりと回る。筆者も体験したことがあるが、柩の重さを感じながらも、逝った人の顔や声や意志のようなものまでもが、体に入ってくる感覚にとらわれた思いがある。こういう体験から、何かを引き継ぐための柩というのが腑に落ちたのかも知れない。 北から渡ってきた雁の列の整然とした佇まいは、どこかもの悲しさがつきまとう。しかし、即き過ぎではない。中七までの人は繋がっていくものという、ある種の安堵感を示す言葉に対しては、調度良い塩梅ではなかろうか。また、柩から中空への視線の変位もあか抜けており納得できる。 |
評 者 |
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備 考 |
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