松岡荒村
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松岡 荒村(まつおか こうそん、1879年(明治12年)5月8日 - 1904年(明治37年)7月23日)は、詩人、評論家。本名・悟、別名・暗濤蒼浪庵。最初の 「君が代」批判論者として知られる[1]。西川文子の前夫。
概略
1879年(明治12年)、熊本県八代郡高田村(現・八代市平山新町)にて松岡喜三(蔵)の五男(9人兄弟の末子)として生まれる[2]。本名は悟(さとる)。同志社尋常中学校ついで同志社高等学部を卒業し、早稲田大学に入学[3]。北村透谷、田中正造、安部磯雄らの影響を受け、詩や評論を雑誌「社会主義」に発表した。貧困問題、足尾銅山鉱毒事件などに強い関心を持ち、社会主義運動の先駆けとして活動する。1904年(明治37年)、25歳で結核により没した[3][4]。
夭折の翌年、彼の詩や評論は白柳秀湖ら友人により「荒村遺稿」として編纂・発行されたが、国家の秩序を乱すおそれがあると発禁処分となった。戦後再評価され、1962年(昭和37年)には天野茂により「松岡荒村・埋もれた明治の青春」というタイトルで、伝記が出版された[5]。
代表作として、詩に「三つの聲」「月けぶる上の歌」、評論に「国歌としての『君が代』」がある[6]。
親族
- 松岡家は中世より肥後国八代(現・熊本県八代市)において活躍してきた名望家の一族で、政治家の松岡長康は本家筋の親戚[7]。長康の妻(いとこ婚)、台湾新聞社、台湾炭業の社長を務めた松岡富雄[8]、社会主義新聞『熊本評論』発行人の松岡悌三[9]は荒村のいとこで、彼らの父の松岡長寛も県会議員で高田村村長[10]。
- 妻の西川文子は荒村没後、西川光二郎と再婚。文子の兄の妻は、与謝野晶子の妹。
出典
- ^ 松岡荒村小論- 文明呪岨から 「君が代」批判荻野富士夫、小樽商科大学人文研究 78 1-24, 1989-08-31
- ^ 『熊本県の百年』森田誠一 山川出版社 1987 p141
- ^ a b 熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年、754頁。
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 熊本日日新聞社編『熊本人物鉱脈』熊本日日新聞社、1963年、105-107頁。
- ^ 日外アソシエーツ『熊本県人物・人材情報リスト2007』424頁。
- ^ 肥後国八代郡高田手永松岡家文書について武井弘一ほか、地理歴史人類学論集 (7), 3-35, 2017-03-31 琉球大学法文学部
- ^ 松岡富雄『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 『日本の社会思想』隅谷三喜男、東京大学出版会、1968、p255
- ^ 『大逆事件と『熊本評論』』岡本弘、三一書房、1986、p184
参考文献
- 平山謙二郎著『文学のなかのふるさと・熊本における近代文学散歩』熊本日日新聞社、1979年、117-118頁
- 熊本県高等学校教育研究会国語部会編 『くまもと文学紀行』 熊本県高等学校教育研究会、2005年、214頁
外部リンク
- 松岡荒村(くまもと文学・歴史館)
- 松岡荒村(kotobank)
- 早稲田と文学(松岡荒村) - ウェイバックマシン(2009年5月24日アーカイブ分) - 早稲田大学
- 松岡荒村 三つの声(日本ペンクラブ)
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