東条松平の名称のいわれ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/15 00:59 UTC 版)
「東条松平家」の記事における「東条松平の名称のいわれ」の解説
始祖・松平義春が三河国幡豆郡吉良荘斑馬の東条城主・吉良義藤出奔の跡を受けて、東条吉良氏の6代目を継承したことによると云う。しかし、この松平氏の東条吉良氏継承の事実関係は現在も明確ではなく、疑問視する見方がある。義春およびその嫡男・松平忠茂は碧海郡の青野城にあったとされ、義春の孫・亀千代(後の松平家忠)の代になって東条城に居城した。 一般的には、亀千代(家忠)の後見人で家老の松井忠次が永禄4年(1561年)に徳川家康に帰属して東条城にあった吉良義昭を攻めて追放し、亀千代を入城させた事績をもって東条松平の成立とみなす。しかしまた、始祖の義春と同名の人物が東条領を領した徴証もあり、また義春の長子・甚二郎も東条吉良領饗庭を領し、同家家老の松井忠次の父・忠直はもと東條吉良家臣とされ、さらに忠次自身も東条領の饗庭(相場)小山田村を本貫とし、そこで出生したとされている。そして、松平氏は勢力拡大の過程で足利将軍家の分家である東条吉良氏に接近し姻戚関係を結んで関係を深めようとした兆候が認められる。
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