東大駒場騒動との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 08:11 UTC 版)
教養学部社会科学科の科長であった1988年、後任教官の候補に、当時同学科教授西部邁が、東京外大AA研助手の中沢新一を助教授に推すが、学科間の感情的対立や社会科学科内の思惑から混乱が生じ、教授会で前代未聞の否決となる。西部は教授会に抗議して辞任。「中沢事件」 「東大駒場騒動」などと報道されて話題となる。見田は社会科学科科長として、当初人事案に賛成するも、その後中沢人事支持を記した文書と、教養学科第三(相関社会科学)委員長で社会科学科の人事委員長であった佐藤誠三郎教授に対する批判を理由に社会科学科の科長を辞任する旨を記した2通の文書を学部内に配布して科長を辞任した。その結果、人事案の提案母体である社会科学科内の不一致を学部内に印象付け、人事案件否決の流れを決定付けた。西部邁は見田の態度を日和見的だとして厳しく批判した。見田は『朝日新聞』に寄稿し、中沢新一の仕事と才能が「近代のアカデミズムの[…]コンセプト自体を問い直すものである」と評した上で、大学人事の体制的な問題を指摘し、中沢人事自体は本質的な問題ではなく、「アカデミズムの意味を問い直す契機とすること」こそが重要であるとした。
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