東京在住期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:56 UTC 版)
1878年(明治11年)、工部大学で学ぶため20歳で東京に出るが、同年11月、工部美術学校に入学した。二期生で浅井忠の後輩にあたる。当時の工部美術学校は外国人の教師を招聘していた。堀江はイタリア人画家フェレッティに師事したが、フェレッティは指導力不足を理由に罷免され、その後はサン・ジョバンニに師事した。サン・ジョバンニは人物画が得意で、明るい絵を描いたと言われ、堀江はその影響を受け、明るい画風となったという。サン・ジョバンニは堀江の絵を高く評価し、帰国時に堀江の作品を持ち帰ったという。工部美術学校時代の同期生には曽山幸彦(のちの大野幸彦)、松室重剛、藤雅三、上杉熊松らがいる。1883年(明治16年)、工部美術学校が閉校となった。このことで、洋画を学ぶ教育機関がなくなった。堀江は工部美術学校同窓の曽山、松室とともに洋画を教える画学専門学校という私塾を東京で開いた。しかし、画学専門学校は資金不足のため1年ほどで閉校となった。画学専門学校が閉校になった後、堀江は長野に帰り、肖像画の制作をしていた。
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