村上源氏の嫡流を確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/18 07:27 UTC 版)
岡野友彦が主張しているように、久我家が村上源氏の嫡流としての地位を確立できたのは専ら長通の努力に負うところが大きい。祖父通基と父通雄の時代、村上源氏の諸家から従一位に叙されたり大臣に任ぜられる者が相次いだ。一覧にすると次のようになる。こうした中で通光と通雄の時に相続問題が発生したために、久我家が他の村上源氏諸家に比して絶対的に優位な立場にあったとは言いがたい状態であったと見ることができる。 堀川具実:建長2年(1250年)に内大臣 中院通成:文永6年(1269年)に内大臣 堀川基具:弘安6年(1283年)に従一位、正応2年(1289年)には太政大臣 土御門定実:正応5年(1292年)に従一位、永仁4年(1296年)に内大臣、そして正安3年(1301)には太政大臣 中院通頼:永仁5年(1297年)に従一位 堀川具守:正安元年(1299年)に従一位、正和2年(1313年)には内大臣 中院通重:正和5年(1316年)に従一位、元応元年(1319年)には内大臣 六条有房:文保2年(1318年)に従一位、元応元年(1319年)には内大臣 また、大臣昇進の場合はいずれも内大臣または太政大臣への昇進であって右大臣・左大臣はない。これは当時、摂関家が5つに分立し各摂家の嫡男が若年で右大臣・左大臣に昇進することが多かった上に、西園寺家からも右大臣・左大臣が出たために、他の大臣家から右大臣・左大臣に昇進する機会が少なかったこととも関係がある。前内大臣から太政大臣への任官がしばしば見られることと同様である。 このような状況の中で、長通は村上源氏の中では院政期の雅定以来の右大臣就任となったのである。さらに長通以後、通相、具通といずれも右大臣を経て太政大臣へと至るのである。
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