李思訓碑とは? わかりやすく解説

李思訓碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 03:19 UTC 版)

李ヨウ (唐)」の記事における「李思訓碑」の解説

全名は『雲麾将軍李思訓碑』(うんきしょうぐん りしくんひ)といい、建碑開元27年739年以後。碑の高さは342cm、幅は145cm。碑文30行で、各行70字あり、書体行書である。陝西省渭南市蒲城県陵(きょうりょう)に現存するが、下半は文字が浸滅している。書風は痩勁で骨格鋭く筆勢もあり結体も明確である。 李思訓は唐の宗室出身で、北画の祖といわれる有名な画家であり、子の李昭道とともに、大・小称された。開元4年716年65歳で歿し、4年後に睿宗陵墓陵に陪葬された。碑文見え李思訓の甥の李林甫官名から推量すると、建碑開元27年以後になり、筆者李邕61歳以後の書となる。

※この「李思訓碑」の解説は、「李ヨウ (唐)」の解説の一部です。
「李思訓碑」を含む「李ヨウ (唐)」の記事については、「李ヨウ (唐)」の概要を参照ください。


李思訓碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/17 05:27 UTC 版)

李邕」の記事における「李思訓碑」の解説

全名は『雲麾将軍李思訓碑』(うんきしょうぐん りしくんひ)といい、建碑開元27年739年以後。碑の高さは342cm、幅は145cm。碑文30行で、各行70字あり、書体行書である。陝西省渭南市蒲城県陵(きょうりょう)に現存するが、下半は文字が浸滅している。書風は痩勁で骨格鋭く筆勢もあり結体も明確である。 李思訓は唐の宗室出身で、北画の祖といわれる有名な画家であり、子の李昭道とともに、大・小称された。開元4年716年65歳で歿し、4年後に睿宗陵墓陵に陪葬された。碑文見え李思訓の甥の李林甫官名から推量すると、建碑開元27年以後になり、筆者李邕61歳以後の書となる。

※この「李思訓碑」の解説は、「李邕」の解説の一部です。
「李思訓碑」を含む「李邕」の記事については、「李邕」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「李思訓碑」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「李思訓碑」の関連用語

李思訓碑のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



李思訓碑のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの李ヨウ (唐) (改訂履歴)、李邕 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS