李思訓碑
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全名は『雲麾将軍李思訓碑』(うんきしょうぐん りしくんひ)といい、建碑は開元27年(739年)以後。碑の高さは342cm、幅は145cm。碑文は30行で、各行70字あり、書体は行書である。陝西省渭南市蒲城県の橋陵(きょうりょう)に現存するが、下半分は文字が浸滅している。書風は痩勁で骨格鋭く、筆勢もあり結体も明確である。 李思訓は唐の宗室の出身で、北画の祖といわれる有名な画家であり、子の李昭道とともに、大李・小李と称された。開元4年(716年)65歳で歿し、4年後に睿宗の陵墓の橋陵に陪葬された。碑文に見える李思訓の甥の李林甫の官名から推量すると、建碑は開元27年以後になり、筆者李邕61歳以後の書となる。
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李思訓碑
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全名は『雲麾将軍李思訓碑』(うんきしょうぐん りしくんひ)といい、建碑は開元27年(739年)以後。碑の高さは342cm、幅は145cm。碑文は30行で、各行70字あり、書体は行書である。陝西省渭南市蒲城県の橋陵(きょうりょう)に現存するが、下半分は文字が浸滅している。書風は痩勁で骨格鋭く、筆勢もあり結体も明確である。 李思訓は唐の宗室の出身で、北画の祖といわれる有名な画家であり、子の李昭道とともに、大李・小李と称された。開元4年(716年)65歳で歿し、4年後に睿宗の陵墓の橋陵に陪葬された。碑文に見える李思訓の甥の李林甫の官名から推量すると、建碑は開元27年以後になり、筆者李邕61歳以後の書となる。
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