李ヨウ (唐)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 李ヨウ (唐)の意味・解説 

李ヨウ (唐)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 03:19 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
本来の表記は「李邕」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
李思訓碑』(部分)

李 邕(り よう、678年 - 747年)は、中国書家泰和鄂州江夏県鐘台山(現在の湖北省咸寧市咸安区大幕郷)の出身。本貫趙郡柏人県。父は『文選』の注釈で有名な李善。子に李穎・李岐(字は伯道)・李翹がいる。

生涯

盛唐の名臣で、留台侍御史のときに譙王李重福を討伐して戦功を挙げた。玄宗のとき北海郡太守に任命されたので、世に李北海と呼ばれる。英才で文名高く、また行書の名手であった。碑文の作に優れ、撰書すること実に800本にのぼり、巨万の富を得たといわれる。

晩年は唐の宗室である李林甫に警戒され、投獄され杖殺されて非業の死を遂げた。享年70。

書碑

代表的な書碑に『李思訓碑』(りしくんひ)、『麓山寺碑』(ろくざんじひ)、『法華寺碑』(ほっけじひ)、『少林寺戒壇銘』(しょうりんじかいだんめい)、『李秀碑』(りしゅうひ)、『東林寺碑』(とうりんじひ)などがある。

李思訓碑

全名は『雲麾将軍李思訓碑』(うんきしょうぐん りしくんひ)といい、建碑は開元27年(739年)以後。碑の高さは342cm、幅は145cm。碑文は30行で、各行70字あり、書体は行書である。陝西省渭南市蒲城県橋陵(きょうりょう)に現存するが、下半分は文字が浸滅している。書風は痩勁で骨格鋭く、筆勢もあり結体も明確である。

李思訓は唐の宗室の出身で、北画の祖といわれる有名な画家であり、子の李昭道とともに、大李小李と称された。開元4年(716年)65歳で歿し、4年後に睿宗の陵墓の橋陵に陪葬された。碑文に見える李思訓の甥の李林甫の官名から推量すると、建碑は開元27年以後になり、筆者李邕61歳以後の書となる。

麓山寺碑

建碑は開元18年(730年)。碑文は28行で、各行56字あり、書体は行書で、湖南省長沙市岳麓区岳麓書院に現存する。碑の篆額には「麓山寺碑」の4字を刻し、碑末の年記の次に「江夏黄仙鶴刻」とあるが、仙鶴とは李邕のことであるという。碑は宋代の頃から、剥落がひどく、拓本で佳品は稀である。麓山寺は嶽麓寺(がくろくじ)ともいわれることから、この碑を『嶽麓寺碑』ともいう。

法華寺碑

建碑は開元23年(735年)。李邕が括州刺史のときに文を撰して行書体で書いたもので、57歳の作である。碑の記末に「刻字者は東海の伏霊芝」とあるが、麓山寺碑の仙鶴と同様、伏霊芝も李邕のこととされている。原碑が末に亡失したため、碑の大きさや碑額は不明であるが、翻刻では23行、各行52字になっている。

法華寺は東晋安帝義熙13年(417年)、釈曇翼が秦望山の西北の地に創建したもので、碑はその曇翼の頌徳碑である。

参考文献

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「李ヨウ (唐)」の関連用語

李ヨウ (唐)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



李ヨウ (唐)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの李ヨウ (唐) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS