本律令が日本本国内に与えた影響(笞刑論争)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/14 07:29 UTC 版)
「罰金及笞刑処分例」の記事における「本律令が日本本国内に与えた影響(笞刑論争)」の解説
台湾に笞刑が導入される30年前に日本本土においては、笞刑は完全に廃止されていた。1872年(明治5年)に制定された「懲役法」により「王朝以来一千年の久しきに亘って採用せし笞刑を廃止し、之に代ふるに懲役刑を以ってする」と定めていた。この笞刑の廃止から30年あまりが経過した1904年(明治37年)においては、笞刑が時代にふさわしくないという認識が常識化していた。従って、台湾における笞刑の復活は、本国の行政官や知識人にあたかも亡霊の復活のように感ぜられ、大きな波紋が生じ、激しい反対論が展開された。当時の司法省監獄事務官の地位にあった小河滋次郎は、「未開蒙昧なる台湾新領土を支配」するには(笞刑を廃止した本国刑法のような)「文明寛大の刑典」をもってすべきであり、笞刑の復活は、「我が名誉ある光輝ある台湾民政」に一大汚点となると主張した。決して台湾人と日本人の平等という観点からの批判でないことに注意する必要がある。むしろ台湾人を「未開蒙昧」と見ている点で、笞刑推進者の台湾人への認識と共通する。
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