未詳の前半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 15:36 UTC 版)
「カルディアのエウメネス」の記事における「未詳の前半生」の解説
前述の『対比列伝』においてプルタルコスは、エウメネスについて「祖国を追われた者」と述べているが、その経緯には触れていない。いかなる事情によってか、彼はカルディアを去り、マケドニアに身を寄せ、フィリッポス2世、アレクサンドロス3世に書記官として仕えた。その後、アレクサンドロスの東征の途上、サンガラ制圧後にペルディッカスと同時にエウメネスも兵の一部を託され地域に残る抵抗勢力の鎮圧を任された。エウメネスが東征中に兵を率いたのは、この時が初めてであった。ヘファイスティオンの死後、ペルディッカスの後任として騎兵の指揮官に就任した。これ以前にも、書記官としてだけではなく、軍事面でもかなりの功績を挙げていたと考えられるが、彼の軍事面での活躍についてはほとんど分かっていない。 アレクサンドロスの死後開催されたバビロン会議において、エウメネスはカッパドキアとパフラゴニア(英語版) 地方の太守に指名された。この任地にはマケドニアの支配が及んでいなかったため、当初はアンティゴノスとレオンナトスの軍事力を借りて征服しようとした。しかし、アンティゴノスは出兵を断り(エウメネスが勢力を固めることで自身の勢力圏だった小アジアにおけるライバルとなるのを嫌ったためと思われる)、レオンナトスはギリシアで発生していた反マケドニア闘争の鎮圧(ラミア戦争)に向かったため、当時大王の遺児アレクサンドロス4世を擁していた摂政ペルディッカスの支援を受けてこれを制圧した。ここでのペルディッカスへの接近は、彼のその後の人生に決定的とも言える影響を与えることになる。ともあれこの後、他の武将たちの例にもれず、エウメネスもディアドコイ戦争を戦っていくことになる。
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