木村五郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/25 17:24 UTC 版)
木村 五郎(きむら ごろう、1899年5月5日 - 1935年8月1日)は、日本の彫刻家[1][2][3]。もっぱら木彫の小品に取り組んだ[1]。短い生涯を通して、150点余りの作品を残し、動物や子供どもの姿などを捉えた作風から「童心の彫刻家」とも呼ばれる[2]。
木村は、日本各地の風俗を捉えた木彫作品を数多く制作する傍ら、農民美術運動に加わり、各地の人々に木彫の技法を伝授した[2]。木村の作品は、土産物同然としてまともに評価しない向きもあったが、高村光太郎や石井鶴三などには認められていた[2]。
経歴
東京府東京市神田区で、洋服商を営む鈴木家に生まれたが、建具職人の木村家の養子となる[2]。
1915年に徒弟学校を卒業し、山本端雲に師事、さらに石井鶴三の指導を受けた[1]。
1919年、石井の推薦を得て、日本美術院研究会員となり、1920年には「簸の川上の素盞雄尊」外1点が院展に初入選した[1]。
日本美術院での活動と並行して、山本鼎が提唱した「農民美術運動」に賛同し、1925年に手工芸協会の結成に参加する一方[2]、日本美術院においては、1926年には院友、1927年9月に同人となった[1]。
この間、1925年、市川房枝に彫刻のモデルとなることを依頼し、作品自体は完成しなかったものの、以降、市川と交流し、1929年から1934年まで、市川ら婦選獲得同盟の機関誌『婦選』に表紙デザインなどを無償で提供した[2]。
1927年以降は、日本農民美術研究所嘱託としてとして木彫の指導にあたるため[2][3]、京都府宇治町(後の宇治市)、長野県川路村(後の飯田市)、秋田県大湯町(後の鹿角市)など全国各地に赴いた[2]。
特に、伊豆大島には1927年以降、頻繁に訪れ、1929年には木彫講習会を開催して島民たちに「あんこ人形」作りの技法を伝え、また島民の姿を捉えた作品を制作した[2]。木村が島民の姿を描いたスケッチが、絵葉書として発売されたこともあった[2]。
木村は、木彫の技法についての著書の中で、原型を用いて同様の木彫を複数製作する方法について詳述した[4]。
没後には遺作展が開催され、日本美術院から『木村五郎作品集』が刊行されたが、その表題は石井鶴三が揮毫し、序文は喜多武四郎、後書きは平櫛田中により、年表の作成は宮本重良が手がけた[2]。
おもな関連書籍
著書
作品集など
- 木村五郎作品集、日本美術院、1937年
脚注
参考文献
- 武井敏「木村五郎の石膏原型 ―彫刻制作における星取り法、技法書等―」(PDF)『碌山美術館報』第42号、碌山美術館、2022年、32-38頁、 CRID 1520292182372789760、2025年5月26日閲覧。
関連文献
- 藤井虎雄・時得孝良・大西外美夫 編『童心の彫刻家 木村五郎資料集1・2』木村五郎研究会、1999年。
- 千田敬一『「これは彫刻になっております」-木村五郎の彫刻とその生涯-』ブイツーソリューション、2005年6月10日、223頁。 ISBN 978-4434062643。
木村五郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 04:26 UTC 版)
「ひかる!チャチャチャ!!」の記事における「木村五郎」の解説
中学3年。主将で当校唯一の黒帯で、実力者。初登場当初は締まりのない表情の出で立ちだったが、三好が部に戻ってからは主将としての威厳を持つようになった。特技は内股。あだ名はラッシャー。
※この「木村五郎」の解説は、「ひかる!チャチャチャ!!」の解説の一部です。
「木村五郎」を含む「ひかる!チャチャチャ!!」の記事については、「ひかる!チャチャチャ!!」の概要を参照ください。
- 木村五郎のページへのリンク