有馬豊長とは? わかりやすく解説

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有馬豊長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 01:35 UTC 版)

 
有馬豊長
時代 江戸時代前期
生誕 慶長6年(1601年
死没 延宝3年4月15日1675年5月9日
別名 大学
戒名 了性
墓所 曹渓寺
官位 従五位下出雲守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川秀忠家光家綱
氏族 摂津有馬氏
父母 父:有馬則頼、母:某氏[1]
兄弟 則氏豊氏、則次、豊長、有馬重頼室、
渡瀬繁詮正室、石野氏満正室、中山慶親
正室:水野忠元
継室:水野重央
女子2人、則故、水野重治[注釈 1]、佐用豊房[注釈 2]、水野勝政[注釈 3]、娘
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有馬 豊長(ありま とよなが)は、江戸時代前期の旗本

生涯

慶長6年(1601年)、摂津国三田藩主・有馬則頼の四男[1]として誕生した。慶長11年(1606年)、6歳の時に人質として江戸に上り、徳川家康秀忠に拝謁する。慶長18年(1613年)、兄・豊氏の所領である福知山に戻っている。大坂冬の陣大坂夏の陣に際しては、豊氏に従っている。

元和2年(1616年)より徳川秀忠に出仕し、のちに御小姓役を務める。元和6年(1620年)、近江国蒲生郡内および武蔵国比企郡内に3000石を賜る。元和7年(1621年)、従五位下・出雲守に叙任。 3代将軍・徳川家光の日光参詣や上洛に供奉した。慶安4年(1651年)に家光が没すると、霊柩と共に日光に赴いている。

その後勤めを辞し、寄合に列した。延宝3年(1675年)4月15日、死去。享年75。麻布の曹渓寺に葬られ、以後代々の菩提寺となった。『寛政重修諸家譜』には4男3女が記載されている。跡は長男の則故が継いだ。

脚注

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注釈

  1. ^ 内膳、平右衛門。紀州藩家臣水野義重の養子となった。
  2. ^ 万吉、外記。筒井重治の養子となるがのちに返されている。
  3. ^ 千代松、右近、藤助。水野勝安の養子。

出典

  1. ^ a b 寛政重修諸家譜』巻第四百七十

参考文献 




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