暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
夏 |
出 典 |
谷間の旗 |
前 書 |
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評 言 |
六林男の代表句の一つであろう。しかし、この句の解釈にはいまだ定説は無いように思われる。普通に解釈すれば、暗闇の中で、何ものかが眼玉を濡らさずに泳ぐのだ、というところか。しかし、なぜ「暗闇の」なのであろう。ここにあてはまりそうな格助詞の「の」の主な意味には、「所在(…にある、…にいる)、行為・状態の地点・時点(…における)、所有(…のものである、…が持っている)、所属(…に属している)、材料による限定(…でできた)」が考えられる。そうすると、「暗闇における眼玉」「暗闇のものである眼玉」「暗闇でできた眼玉」などの読み方も考えられてくる。もし、「暗闇に」「暗闇を」「暗闇へ」などと入れれば、泳ぐ主体は作者だと感じる強さが増し、「暗闇は」「暗闇が」にすれば、AはBするものだ、的な格言っぽい表現となる一方で、「暗闇」が擬人化される読みも浮上する。「暗闇の目玉」であることによって、動作主体はゆらぎ、イメージの謎は謎のままで読者にゆだねられ、泳ぐのは何ものなのか、なぜ濡らさず泳ぐのか、という緊張感ある場面の謎の読み解きや詩性が生まれているのであろう。鈴木六林男は、戦争俳句や社会性俳句の代表作家と言われるが、強烈にリリカルな資質を根っこに持っていると思う。 掲句を戦争俳句と見る向きもあるようだが、どうだろうか。昭和23年の作の中にまとめられているし、『谷間の旗』は戦争ばかりを感じさせる句集ではない。ただし、個人的には、この句を見るとどういうわけか、コッポラの「地獄の黙示録」の、河からぬっと主人公の顔が現れる一場面がうかぶ。それは泳ぐ風景でもなければ眼も濡れているのだが。 |
評 者 |
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備 考 |
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