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是久幸彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 10:23 UTC 版)

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是久 幸彦
基本情報
国籍 日本
出身地 東京都世田谷区[1]
生年月日 (1943-09-02) 1943年9月2日(78歳)
身長
体重
175 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1962年
初出場 1964年
最終出場 1967年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

是久 幸彦(これひさ ゆきひこ、1943年9月2日 - )は、元プロ野球選手。ポジションは内野手

来歴・人物

法政二高では三塁手として甲子園に3回出場。2年生の時、七番打者として1960年夏の選手権にエース柴田勲を擁し出場。順調に勝ち進み決勝では静岡高に3-0で完封勝利、初優勝を飾る[2]。翌1961年春の選抜では四番打者に座り、決勝で高松商を4-0で降し、前年からの夏春連覇を達成する[3]。法政二高は同年夏の選手権にも出場。準決勝で、これまで甲子園で2勝している因縁の浪商と対決、柴田と尾崎行雄との投手戦となり、延長11回の熱戦の末2-4で敗退した[2]。甲子園通算52打数17安打8打点。柴田以外のチームメートに同期の的場祐剛中堅手大洋)、1年下には後に日本人初のメジャーリーガーとなる村上雅則が控え投手として出場していた。

1962年には鳴り物入りで東映フライヤーズに入団する[1]。しばらくは二軍暮らしが続くが、1963年から2年連続でジュニアオールスターにも選出される。翌年には一軍に上がり、1966年には73試合に出場する。1967年もシーズン終盤の10月には全試合先発出場するが、打撃面で実績を残せず、同年限りで一度引退[1]

1969年、中南米で新規に発足した国際的プロ野球リーグである「グローバルリーグ」の東京ドラゴンズに、森徹矢ノ浦国満らと共に参加するが、同リーグは財政問題で破綻し、半年で解散を余儀なくされ帰国した[1]

その後、サラリーマンとなり1984年店舗設計施工のアスク企画に入社、営業部長となる[1]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1964 東映 5 5 5 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .200 .200 .200 .400
1966 73 76 67 5 15 3 1 0 20 5 1 0 1 0 7 0 1 8 2 .224 .307 .299 .605
1967 42 54 48 2 10 2 0 0 12 1 0 0 1 1 3 0 1 10 1 .208 .269 .250 .519
通算:3年 120 135 120 7 26 5 1 0 33 7 1 0 2 1 10 0 2 18 3 .217 .286 .275 .561

背番号

  • 5 (1962年 - 1965年)
  • 13 (1966年 - 1967年)
  • 41 (1967年)

脚注

  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、232ページ
  2. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年

関連項目

外部リンク




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