旧貢租・田租について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:40 UTC 版)
地租の由来は、大和政権における、収穫された稲を神にささげる慣行である「たちから」にさかのぼる。大化の改新により成立した律令国家では、「たちから」は、唐に倣って採用した租税制度である「租庸調」のうちの「租」へと再編された。ここでいう租とは、田畑(口分田)の収益を課税物件とした租税である。明治時代以前には田租(たそ)・貢租(こうそ)などと呼ばれていた。 豊臣秀吉の行った太閤検地により、土地の生産力を石高(玄米の生産量)であらわし、その石高に応じて年貢を課すこととされた。また、検地帳に土地の直接耕作者を登録し、その者を租税負担の責任者とした。 地租は収穫量を今日でいう課税標準とし、直接に耕作者である百姓からその生産物をもって徴収された(物納)。なお、この納入は村請により村単位で一括して行われたと言われている。
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