日本ミドル級チャンピオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 01:00 UTC 版)
「カシアス内藤」の記事における「日本ミドル級チャンピオン」の解説
内藤自身は「カシアス」のリングネームに気が重かったらしいが、デビュー翌年から名トレーナーとして知られるエディ・タウンゼントの指導を受けると連勝街道を邁進し、無敗のまま1970年2月に日本ミドル級チャンピオン、翌1971年1月には東洋ミドル級チャンピオンとなり、周囲は重量級の世界チャンピオンの誕生を期待するようになる。 しかし、恵まれた才能を持ちながら、元来の気が優しく精神的に脆い面が災いして、後に輪島功一を倒して世界チャンピオンとなる韓国の柳済斗に敵地で敗れ、東洋ミドル級タイトルを喪うとともに初黒星を喫すると、以降は精彩を欠いた試合を続けるようになった。一足先に重量級の世界チャンピオンとなった輪島とは、ノン・タイトル戦ながら1972年2月に試合を行っており、ダウン応酬の壮絶な打撃戦の末に7回KO負けしている。戦績が下降線を辿るようになってくると、勢いのある選手の「かませ犬」のような存在となり、1974年にやはり後の世界王者である工藤政志に判定負けし、一旦表舞台から姿を消した。
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