旗本 馬場氏
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馬場半左衛門昌次は、徳川家康が会津征伐の際に山村甚兵衛良勝、千村平右衛門義重と共に下野の小山へ赴き東軍に加わったが、山村甚兵衛良勝、千村平右衛門義重が木曽に向けて出発した後も小山に留まって木曽の軍用を勤めた。その後徳川秀忠軍が中山道を関ヶ原に向けて進軍すると小笠原信之とともに妻籠城を守備し、他の木曾衆、遠山利景、小里光親らと共に豊臣方の大名が占拠していた美濃国明知城・岩村城を攻めて武功を挙げた。(東濃の戦い)。元和元年(1615年)木曽が尾張藩領に加封された際、山村、千村とは行動を共にせず江戸に詰め、江戸幕府直属の旗本(釜戸馬場氏)となり、美濃国土岐郡釜戸村に釜戸陣屋を構えた。昌次の子の馬場利重は寛永12年(1635年)甲斐国巨摩郡内の1000石を加増された。明暦3年(1657年)11月25日、3代目の馬場利尚の時に、弟の馬場利興に対して父の遺領の内、恵那郡の茄子川村内の275石と甲斐国巨摩郡の合計600石を分知したことで、旗本茄子川馬場氏が誕生した。
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