族長法から国造法へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/22 23:47 UTC 版)
こうした族長法の展開に並行して5世紀ないし6世紀ころより畿内およびその周辺の諸豪族の政治的結合体であるヤマト王権の権力が族長の上位の政治権力として拡大する。石母田はこのヤマト朝廷権力のもとで発達した法を王法と称しているがこの王法もまた族長法をとりこみつつ自己の法を発達させたのであった。 大祓についていえば王法の発達により大祓は大王が挙行する全国的大祓に転じてしまう。また族長の王権に対する反逆すなわち〈謀反(むへん) 〉にはその者を処刑しその者の支配領域を没収するという過酷な刑を採用して王権の強化とその専制化がはかられる。さらに氏姓制、部民制、国造制等のさまざまな政治制度が創設されて支配秩序が強化される。 この間族長の一部は王権により国造として編成される。国造の有した法は族長が王権により国造に任命されたことによって保障された領域支配を基礎としまた王権によって制約されるものとなった。この点において国造が有した法は昔日の族長法とは異なっていた。石母田はこの段階での法を国造法と称している。聖徳太子が制定した十七条憲法は上記のような王法の一つの到達点を示すものである。この憲法はヤマト朝廷を構成する諸豪族および服属した国造等のみでなく国造治下の百姓、公民をも人格的臣従関係に基づいて王権のもとに編成しようとした組織規範であった。
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