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新楽金橘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/15 16:46 UTC 版)

新楽 金橘
にいら きんきつ
人物情報
生誕 (1860-05-22) 1860年5月22日
日本静岡県
死没 1940年ごろ
居住 日本東京都
出身校 静岡県浜松師範学校
学問
研究分野 漢学
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新楽 金橘(にいら きんきつ、万延元年4月2日1860年5月22日〉 - 昭和15年〈1940年〉ごろ)は、日本漢学者教育者私塾「余力学舎」(現在の海城中学校・高等学校の前身)の設立をはじめ、日本の近代教育のために力を尽くした。

人物

1860年、静岡県士族の家に生まれる。漢学者を志し、1877年に静岡県浜松師範学校を卒業した。

1885年には芝区三田(現:港区三田)に私塾「余力学舎」を創立。新楽一人で漢文英語を教え、生徒数は順調に増えていった。「余力学舎」は後に「東京英華学校」「海軍兵医学校予備校」と改称し、海軍兵学校海軍軍医学校などに卒業生を送り出した。1891年、新楽は教育指導に専念するため、海軍少佐古賀喜三郎に学校経営の一切を引き継ぐ。このとき新たに設立された「海軍予備校」が、現在の海城中学校・高等学校の起源となっている[1]

その後新楽は、故郷静岡の豆陽中学校校長を任ぜられたのち、再び東京に戻って、海軍予備校や二松学舎などで生徒たちに教えを施した[2]。この期間に新楽は、学者として「先秦時代文法研究」など権威ある[3]論文を発表しただけでなく、生徒たちのためにも「点註十八史略読本・上中下」や「英文和訳五百題」などの教科書をも執筆し、広く愛読された。

新楽は晩年、古巣の海城中学校で再び教鞭をとったあと、1935年には第一線を退いた。海城学園発行『百年史』によれば、新楽は温厚な性格で、生徒が悪事を働くと思わず目をつぶってしまうほどだったという[2]

年譜

主な著作

  • 『英文和訳五百題』(1894年、金蘭社)
  • 『点註十八史略読本・上中下』(1895年、敬業社)
  • 『英語冠詞用法』(1897年、敬業社)
  • 『英文学余師』(1898年、敬業社)
  • 『左伝抄:点註・巻一二三四』(1900年ごろ、内田老鶴圃)
  • 『実用日本文典:中等教育・上下』(1902年、敬業社)
  • 『先秦時代文法研究』(1932年、伊川堂書房)
  • 『孝経読本』(1933年、伊川堂書房)

脚注

  1. ^ 百年史 1991, p. 16.
  2. ^ a b 百年史 1991, p. 17.
  3. ^ 百年史 1991, p. 200.

参考文献

  • 百周年記念誌編集委員会 編『百年史』学校法人 海城学園、1991年11月1日。 



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