新八郎定則
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 06:54 UTC 版)
永正5年(1508年)正月、居館・野田城から移転すべく新たな野田城の築城に取り掛かる。富永氏以前の、平安時代の千秋氏(せんしゅう氏)による支配の頃から平地に在った居館の場所は不変で、竹千代の入館後であっても防備が疎かな上に、豊川の氾濫による水害にたびたび見舞われていたのが理由にあるという。 この正月には元服を執り行い、竹千代は新八郎定則と改名した。永正13年(1516年)、今川氏の遠州征服に呼応して曳馬城攻略戦にも参戦、8月19日(1516年9月25日)には陥落させた。その功により遠州の河合(静岡県磐田郡佐久間町川合)、高辺(高部?こちらは位置不明)の2郷を今川氏親から給された。同年12月になって、8年の歳月をかけた野田の新城がようやく完成。翌年の正月4日(1517年2月4日)になって転居した。 享禄年間(1528年~1531年)には、松平清康の東三河平定戦の一環・宇利城攻略戦に従軍するため、今川氏から転属。ただし、清康の死後は今川氏に再属した。
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