新ブラウンシュヴァイク家
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「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家」の記事における「新ブラウンシュヴァイク家」の解説
「ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家」も参照 フランツ・オットーの弟であるハインリヒから始まる。息子のアウグスト2世はヴォルフェンビュッテルを継承した。アウグスト2世の曾孫アントン・ウルリヒの后アンナはロシア皇帝イヴァン5世の外孫であったことから2人の間に出来たイヴァン6世はロシア女帝アンナによって生後2ヶ月で新皇帝に選出され、アントン・ウルリヒも皇帝の父ということでロシアに同行した。しかし翌1741年のピョートル1世の娘エリザヴェータのクーデターで廃位され、イヴァン6世は25年の長きに渡る幽閉生活の後(1764年)に殺害され、アントン・ウルリヒも8年後の1774年に虜囚の身のまま亡くなった。 カール・ヴィルヘルム・フェルディナントは一族の重鎮として、そして実質的な王党派の首領として反革命軍を率いてフランス革命戦争で戦ったが、1793年のヴァルミーの戦いで敗北を喫した。1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦いでフランス皇帝ナポレオン・ボナパルト率いる大陸軍の前に大敗北を喫し、自身も討ち死にし、公国はフランスの衛星国であるヴェストファーレン王国に吸収された。カール・ヴィルヘルム・フェルディナントの息子であるフリードリヒ・ヴィルヘルムは「黒い軍勢」を率いてナポレオンの支配に抵抗し、その功績が認められて初代ブラウンシュヴァイク公となる。1815年にカトル・ブラの戦いで戦死すると2人の息子がそれぞれ公位を継承するも、共に男子を残さなかったため1884年に断絶した。
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