文教地区・学生街としての発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:27 UTC 版)
「千田町 (広島市)」の記事における「文教地区・学生街としての発展」の解説
1902年以降、この地区には山中高等女学校(のち広島女子高等師範学校)・広島高等師範学校に始まって進徳高等女学校(1909年)・県立広島工業学校(1911年)・広島高等工業学校(1920年)・修道中学校(1926年)・広島文理科大学(1929年)などの高等・中等の教育機関が新設・移転により立地するようになった。この結果、千田町は文教都市としての広島を象徴する町となり、この一帯は急速に宅地化するとともに、下宿・書店・飲食店などが立ち並び学生街が形成された。 また地区の南半部には神戸製鋼広島工場、広島電灯千田町発電所が建設、神戸製鋼の撤退後にはその跡地に帝人広島工場が進出するなど工場地区としての発展をみた。このうち広島電灯千田町発電所は、1920年の竣工当時は最新鋭の発電設備を備えており、この発電所の稼働によって広島市内で電灯が一般に普及するようになった。また同年操業を開始した帝人広島工場は一時は約18.000人の工員が勤務するなど大工場として発展したが、1935年の岩国・三原工場新設により一時閉鎖に追いこまれ、以後は研究所のみが存続した。しかし1938年には操業が再開され、戦争末期にはここに本社が疎開してくるなど活気を取り戻しつつあった。
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