敦貞親王とは? わかりやすく解説

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敦貞親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 10:22 UTC 版)

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敦貞親王(あつさだしんのう、長和3年10月6日1014年11月1日[1] - 康平4年2月8日1061年3月2日))は、平安時代中期の皇族敦明親王(小一条院)の第一皇子官位三品式部卿

経歴

後一条朝寛仁3年(1019年)異母妹・儇子内親王とともに、祖父・三条上皇養子として(内)親王宣下を受ける。

万寿元年(1024年高陽院競馬の左方の念人(勝負事に際して競技者の応援や世話をする役)となったが、関白藤原頼通が聞いたことがない親王であるとして、念人の中から敦貞親王を除こうとする。大外記・清原頼隆が三条院の親王(実は敦明親王の子)であると述べるも、童親王であることを理由に頼通は念人の中から敦貞親王を除いている[2]長元4年(1031年修理大夫源済政の娘と結婚した[3]

長元9年(1036年)6月に後朱雀天皇即位威儀料として四品に叙せられ、同年7月の即位式では左侍従を務める[4]。同年11月に中務卿に任ぜられた。寛徳2年(1045年後冷泉天皇の即位式でも左侍従を務めている[5]永承5年(1050年式部卿に任ぜられ、位階は三品に至った。

康平4年(1061年)2月8日薨去享年48。最終官位は三品式部卿。

官歴

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

  1. ^ 『小右記』長和3年10月7日条
  2. ^ 『小右記』万寿元年9月17日条
  3. ^ 『小右記』長元4年正月19日条
  4. ^ 『天祚禮祀職掌録』後朱雀院
  5. ^ 『天祚禮祀職掌録』後冷泉院
  6. ^ 『日本紀略』
  7. ^ 『範国記』
  8. ^ a b 『十三代要略』
  9. ^ a b 『尊卑分脈』
  10. ^ 『御室相承記』2「長和入道親王」(赤坂[2015: 36])

参考文献

  • 『日本人名大辞典』講談社、2001年
  • 『大日本史料』2編902冊
  • 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年
  • 赤坂恒明「冷泉源氏・花山王氏考:伯家成立前史」『埼玉学園大学紀要 人間学部篇 15』埼玉学園大学、2015年



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