拾九町村分割による西方村の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 21:19 UTC 版)
「西方 (指宿市)」の記事における「拾九町村分割による西方村の成立」の解説
前身となる拾九町村は江戸時代中期に東西に分割され、延宝2年に拾九町東方村と拾九町西方村に分けられ、享保年間以降に正式に分割され西方村として成立した。 西方村は薩摩国揖宿郡指宿郷(外城)に属し、村高(石高)は「三州御治世要覧」では2,981石余、「旧高旧領取調帳」では2458石余であったとされている。 西方村の宮ヶ浜には指宿郷の地頭屋敷が置かれ、指宿郷の中心であった。 延享元年に指宿郷及び頴娃郷の一部より分割され今和泉郷が成立した。西方村関連では西方村の半分の区域が分割され新西方村(現在の指宿市新西方)として分村され、新西方村は今和泉郷に属した。
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