手話法と口話法の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 18:45 UTC 版)
黎明期の日本の聾教育は、前述のスペイン系のものとは系統が異なる、日本で独自に考案された手話法で、当時は「手まね」と呼ばれた。しかし大正期に入るとライシャワー夫妻がアメリカから口話法を輸入して日本聾話学校を開校。また川本宇之介(東京聾唖学校長)や橋村徳一(名古屋市立盲唖学校長)、西川吉之助(滋賀県立聾話学校長)らが口話法を推進。手話法の重要性を訴える高橋潔(大阪市立聾唖学校長)や佐藤在寛(函館盲唖院長)らとの間に激しい論争が巻き起こった。 しかし当時文部大臣だった鳩山一郎の訓示により、日本のろう学校の大半は1933年以降は口話教育を主とし(大阪市立聾学校などの例外もあった)、手話の使用を禁じることも多かった。昭和13年には荒木貞夫文部大臣により、口話法が適さない児童生徒にも口話法を強要することが無いよう配慮を求める訓示がなされたが、口話法への流れは変わらなかった。
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