徳政令と財政再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 09:50 UTC 版)
ところが、6代将軍足利義教以後になると状況が変わってくることになる。まず、土一揆などによって徳政令が出されると、それによって打撃を受けた土倉を救済するために土倉役を免除しなければならなかった。嘉吉元年(1441年)に生じた嘉吉の徳政一揆とこれをうけての徳政令によって徴税ができなくなったため、幕府は土倉方一衆への徴収委任を取りやめて奉行人奉書による賦課と籾井の御倉への収納に改め、さらに納銭の賦課対象を「日銭屋」と呼ばれる高利・日歩の新興金融業者や「味噌屋」にまで拡げることで、収入の回復を図った。しかしながら洛中洛外における賦課対象の把握は奉行人の実務的負担が大きいため、やがて幕府は納銭徴収者を個別に補佐して徴収と収納を行わせることとした。幕府はこの徴収者―納銭方御倉、納銭方衆中、政所納銭一衆、納銭衆などと呼ばれた―を1名から3名程度の少数のみに指定することによって、従来は土倉方一衆が得ていたであろう中間得分を抑制して収入減収に歯止めをかけようとしたようである。
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