従一位の大納言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/04 22:56 UTC 版)
弘安6年(1283年)12月20日に堀川基具は従一位に叙せられ、翌弘安7年(1284年)1月13日に大納言を辞し、そののち大臣に準じて朝参すべしという宣下を受けた。また弘安8年(1285年)3月6日には前大納言正二位行兵部卿藤原良教が従一位に叙せられ兵部卿を辞している。西園寺実兼と大炊御門信嗣は大臣でなく従一位に叙せられた3例目と4例目になるが、従一位昇叙のあとに大納言を辞することなく内大臣に昇進している点が、前二者と異なる。 西園寺実兼の女である西園寺鏱子は、弘安11年(1288年)4月27日、従三位に叙せられ、正応元年(1288年)6月2日、前年に即位した伏見天皇のもとに入内、同月8日女御、さらに同年8月20日には中宮となった。西園寺実兼が大納言兼右近衛大将のまま従一位に叙せられた背景は鏱子の入内・立后にあると推察できるが、信嗣にとっては年齢も序列も下である者に超越されたことになる。さらに内大臣昇進も実兼に先を越されたため、信嗣を慰撫するため、あるいは信嗣からの申し入れによって大納言兼左近衛大将のまま従一位に叙されたと見ることができる。また伏見天皇が即位するまで西園寺実兼と大炊御門信嗣が昇進できなかったということは、本郷和人が主張するように西園寺実兼は持明院統派であった傍証であると考えられ、大炊御門信嗣も同様に持明院統派であったのではないかと推測できる。
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