彰義隊・振武軍への参加
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「渋沢平九郎」の記事における「彰義隊・振武軍への参加」の解説
慶応4年(1868年)2月、徳川慶喜が江戸城を出て寛永寺に蟄居すると、これに不満を抱いた有志たちは慶喜の復権に向けて集議を重ねた。同志の数は膨れ上がり、23日に彰義隊が結成される。頭取は平九郎の従兄・渋沢成一郎である。平九郎は計画段階から参画しており、彰義隊第二青隊伍長に任命された。4月に江戸城が開城し、慶喜が水戸へ退隠すると、平九郎は慶喜の様子を見に行っている。 彰義隊では次第に頭取の渋沢成一郎と副頭取の天野八郎との間で軋轢が生じ、4月28日には平九郎宅が天野八郎派の隊士に取り囲まれる事件が発生した。 閏4月、成一郎は彰義隊と袂を分かち、振武軍を結成する。平九郎は自邸の障子に「楽人之楽者憂人之憂、喰人之食者死人之事 昌忠」と書き残して彰義隊を離脱し、振武軍に加わった。 振武軍は箱根ヶ崎に本営を設置し、隊長は成一郎、中軍の将に惇忠、右軍頭取に平九郎が就任した。 平九郎は各地に赴き情報を集めており、5月15日、平九郎から上野戦争勃発の報告を受けた成一郎は彰義隊の救援を画策するが、時すでに遅く彰義隊の残党とともに本営に引き返している。
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