張栻との出会いとは? わかりやすく解説

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張栻との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 06:02 UTC 版)

朱熹」の記事における「張栻との出会い」の解説

紹興27年1157年)、朱熹同安を去ると、翌年には母へ奉養理由に祠禄の官を求め12月に監潭州南学廟に任命された。朱熹は、これから50歳までの20年間、実質的に官職就かず、家で読書著述弟子教育励んだ朱熹官歴は、50年のうち地方官として外にいたのが9年朝廷立ったのは40日で、他はずっと祠禄の官に就いていた。 隆興元年1163年朱熹34歳の時、師であった李侗逝去するが、この頃張栻知り合い以後二十年近い交遊の間に互いに強い影響与え合った両者実際に対面したのは数回だが、手紙やり取り50以上に及んでいる。張栻は、湖南学の流れ汲み、察識端倪説(心が外物接触して発動する已発の瞬間現れる天理認識し涵養せよとする説)を唱え、「動」に重点置いた修養法を説いた乾道3年1167年)には、朱熹長沙張栻の家を訪問し、ともに衡山登り、詩の応酬をした。朱熹張栻の「動」の哲学大きな影響を受け、この時期には察識端倪説に傾斜していた。

※この「張栻との出会い」の解説は、「朱熹」の解説の一部です。
「張栻との出会い」を含む「朱熹」の記事については、「朱熹」の概要を参照ください。

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