張允
(?~?) |
||
蔡瑁の外甥《後漢書劉表伝》。蔡瑁の伯母が太尉張温に嫁いでいる《後漢書集解》。張允はその孫だろうか。 荊州牧劉表には劉琦・劉琮という二人の子がいたが、蔡氏は前妻の子劉琦を憎み、張允も蔡氏の弟蔡瑁とともに劉琮と仲が良かった《後漢書劉表伝》。蔡氏は寝室で劉琮の美貌を劉表に訴え、張允・蔡瑁は外にいて劉琮の人徳を感歎してみせた《劉表伝集解》。こうして劉表は劉琮を愛するようになり、長子劉琦を外に出して江夏太守にした《劉表伝》。 建安十三年(二〇八)、曹操が劉表討伐の軍を起こした矢先、劉表は病にかかった。それを聞いた劉琦が任地から戻ってきたが、張允は父子の情愛によって彼が後継者になるのではないかと心配し、蔡瑁とともに戸外で彼を追い返している《劉表伝》。こうして劉表が没したのち劉琮が跡を継ぐことになり、劉琮はそのまま曹操に降服した《劉表伝》。 【参照】蔡氏(劉表妻) / 蔡瑁 / 曹操 / 張温 / 劉琦 / 劉琮 / 劉表 / 荊州 / 江夏郡 / 大尉 / 太守 / 牧 |
張允
(?~?) |
||
許貢は呉郡太守を称して高岱の母を人質に取った。高岱は友人の張允・沈〓に船を準備させて許貢に会いに行き、母を返してもらって船に乗った。許貢は気が変わって追っ手を差し向けたが、追い付くことができなかった《討逆伝》。 張允は孫権の東曹掾になり、亡くなった。のちに顧雍がその子張温を評価して「現代において張温に比肩する者はおりませぬ」と述べたところ、孫権は「ならば張允が死んでいないのと同じことだな」と答えている《張温伝》。 張允が東曹掾に任用されたとき、孫権がどの将軍位に就いていたのか分からない。その役職から開府が条件になるかとも思うが、孫権は討虜将軍の当時すでに開府していたらしい《陸遜伝》。本伝の記述が正しければ、張温が出仕したのは孫権が呉王に封ぜられて以降のことで、二十九歳かそれ以上だったことになる。もし父張允が亡くなったのが討虜将軍の時代であれば、張温はもっと早く登用されていたはずだ。ここでは驃騎将軍の東曹掾だったとしておきたい。 |
張允
- 張 允のページへのリンク