弥生時代の主な出来事 (やよいじだいのおもなできごと)について述べる。
時代
年代
期別
琉球
九州・四国・本州
北海道
中国大陸
縄文晩期
紀元前13世紀~
殷
弥生時代早期
紀元前11世紀~
先I期
弥生文化…水稲耕作・大陸系石器・支石墓 (しせきぼ)の伝来。日本最古の水田(板付遺跡 )。
西周
弥生時代前期
紀元前8世紀~
I期・前半
東周 ・春秋
I期・中葉
東周 ・春秋
I期・後半
春秋 ・戦国
弥生時代中期
紀元前4世紀~
II~III期・前半
縄文式土器の影響を受けた弥生式土器 が現れる。
西日本に青銅製の武器型祭器が使われる。
祭祀が行われていた 。
北九州では甕棺墓が流行し、多数の前漢鏡 を副葬する甕棺墓が少数見つかっている。
戦国 ・秦 ・前漢
II~III中葉
新
IV期・後半
続縄文時代
新 ・後漢
弥生後期
50年~
V期前半
57年 漢の倭(委)の奴 の国王(倭の委奴国王と読む説も有る)が後漢 に朝貢し、光武帝 から印綬を授けられる(『後漢書 』光武帝紀、同東夷伝)。筑前国志賀島(福岡市)出土の金印「漢委奴国王印 」にあたる。
近畿地方を中心に銅鐸 がつくられる。
西日本から関東にかけて集落の周りに濠や土塁を巡らした環濠集落が増える。佐賀県神埼郡吉野ヶ里遺跡 、大阪府池上・曽根遺跡 。
瀬戸内海沿岸各地に高地性集落 が集中的に営まれる。畿内と瀬戸内地域に軍事的緊張。集落相互間の支配・従属的秩序化が進む。関東や北陸にも普及する。
中期後半(1世紀代)以降は、畿内と瀬戸内地域に人的交流があり、平和的関係になっている。
銅鐸が急に大型化する。近畿式と三遠(さんえん)式がある。三遠とは、旧国名の三河・遠江で、現愛知県東南部と静岡県西南部を指す。
続縄文時代
渡島(おしま)半島、石狩低地帯、北見・網走地方、釧路・根室地方。
前半は、河川漁労と沿岸漁労が生業の中心。
後半は、河川漁労が主体になる。
後漢
V期中葉
石器が消滅し、鉄器が普及する。
107年 倭国王(倭面土国王)帥升 ら後漢の安帝 に生口 160人を献ずる(『後漢書』安帝紀、同東夷伝 永初1丁未)。
この頃、倭国乱れ、互いに攻伐し(倭国大乱 )、長い間盟主なし。この後、卑弥呼 が共立されて王となる。邪馬台国 の女王卑弥呼は、鬼道に仕え、……(『魏志』倭人伝 )。
「倭国乱」は、北部九州が主要な戦場ではなかったと考えられている。畿内勢力と吉備・瀬戸内勢力の間に戦いはなかった。
180年 代の「中平□年」(中平は後漢霊帝治世の年号、184~189年間)の金象嵌紀年名の大刀(奈良県天理市東大寺山古墳 から出土)。「倭国乱」収束後に「倭国王」が後漢に遣使した時に「下賜」されたものと考えられている。
続縄文時代
集落は、河川沿いに、特に主要河川の下流部に設けられる。
住居は、円形又は楕円形で、竪穴建物 。
V期後半
238年 、呉 の「赤烏 元年」の紀年銘を持つ画文帯神獣鏡 (山梨県 市川三郷町 の鳥居原狐塚古墳 から出土)。
239年 6月、倭の女王卑弥呼、使いを帯方郡 に派遣し、魏 の明帝 への奉献を願う。帯方郡の太守、使いを魏の都洛陽へ送る。12月、明帝は詔して、卑弥呼を親魏倭王 とし、金印紫綬 を授ける。また銅鏡100枚 などを授ける(『魏志』倭人伝 魏景初3年)。「景初三年」の紀年名を持つ三角縁神獣鏡 が大阪府黄金塚と島根県大原郡の神原古墳から出土。
240年 、帯方郡太守、使いを倭に送り、詔書・印綬をもたらす。倭王、魏の使いに託して、上表する(『魏志』倭人伝 魏正始1年)。「□始元年」の紀年名を持つ三角縁神獣鏡が群馬県高崎市の芝崎古墳と兵庫県豊岡市森尾古墳から出土。
243年 、倭王、大夫等を使者に、生口・倭錦などを献じる。12月、魏の少帝 、使者を送り、印綬を授ける(『魏志』少帝紀、同倭人伝 魏正始4年)。
244年 、呉の「赤烏七年」の紀年名を持つ画文帯神獣鏡が兵庫県宝塚市の安倉古墳から出土する。
245年 、魏の少帝、倭の大夫に黄幢を授け、帯方郡を通じて伝授させることとする(『魏志』倭人伝 魏少帝7年)。
247年 、倭の女王卑弥呼は、狗奴国 の男王卑弥弓呼と対立していたが、倭の使者を帯方郡に派遣し、狗奴国との交戦を告げる。魏は使者を倭に派遣し、詔書・黄幢を難升米 に与え、檄をつくって告喩する(『魏志』倭人伝 魏正始8年)。
248年 、この頃、卑弥呼死ぬ。径100余歩の冢をつくり 、奴100余人を殉葬する。男王を立てるが、国中服さず、誅殺しあい、1000余人が殺されたという。卑弥呼の宗女、壱与(いよ、または台与 ・とよ)が女王となり、国中治まる。魏の使者は、檄をもって壱与に告喩する。壱与、倭の大夫ら20人に、魏の使者を送らせ、生口30人、白珠5000孔などを献じる(『魏志』倭人伝 魏正始9年)。卑弥呼の墓と目される箸墓古墳 が築造されている。
続縄文時代
土器は、いろいろな撚縄(よりなわ)の跡を付けた縄文。
三国
古墳時代
3世紀後半
前期前半・2世紀中頃~
奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡 、三輪山 麓の初瀬川支流の扇状地 に広がる。弥生時代終末から古墳時代初期にかけての大和・柳本古墳群の一つ。祭祀遺物があり、環濠を持たない。掘立柱住居。弥生時代終末期の畿内勢力の中心的位置を占める宗教的・政治的勢力の本拠の一つ。前方後円墳の祖型とみなされる墳丘が集中して見られる。邪馬台国 畿内説の最有力候補地。
266年(西晋の泰始2)11月、倭の女王(壱与か)遣使し、西晋に朝献する(『日本書紀』神功66年条に引く晋起居注、晋書武帝紀)。この後、413年 まで中国の史書には倭の関係記事見えず。
この頃、つまり3世紀 の中葉から古墳時代 前期に入る。
続縄文時代
三国
水稲農耕関連
日本への稲作伝来の段階と波及
第1期波及……縄文後期後半から晩期前半島原沿岸と玄界灘沿岸に雑穀栽培が到達。イネは、畑作物として伝来し、陸稲 として混作された。農具は、打製の石斧や石包丁、石鎌。
第2期波及 ……日本の水稲農耕のはじまりは、縄文晩期後半から終末期に中国江南 等から伝来したと考えられる。
朝鮮半島から多くの人が流入してきたと考えられている。
第3期波及……突帯文土器末期の玄界灘 沿岸地域には新しい板付I式土器文化。東方への水稲農耕の波及源。コメ、雑穀、マメ類。西日本に農業集落が出来ていく。
第4期波及……北部九州の弥生時代前期後半(板付II式)以降、水稲農耕は西日本一帯に急速に広がった。
弥生時代の稲作農耕関連年表
時期
年代
時期区分
北部九州
四国・吉備・近畿 山陽・山陰・遠江
東国(関東)
縄文晩期・弥生早期
紀元前5世紀
早期前半
早期中葉
早期後半
凸帯文土器、夜臼式土器
唐津湾 と博多湾 沿岸地域。福岡県糸島市 二丈石崎の曲り田遺跡(縄文時代晩期の集落)、唐津市菜畑遺跡 、福岡市板付遺跡 では灌漑施設、磨製石包丁、諸手グワ、広グワ、馬グワなどの木製農耕具 。
縄文晩期の土器、夜臼式土器(縄文晩期の突帯文土器粗製土器)。
岩手県 大船渡市 大洞貝塚土器を大洞B・BC・C1・C2・A・A'に細分。
弥生時代前期
紀元前3世紀
前期前半
北九州に金属器の農機具 を使って稲作 が行われていた。
北部九州の弥生時代前期後半(板付II式)以降、水稲農耕は西日本各地に波及した。遠賀川 系土器文化の伝播である。モモ、マクワウリなどの液果類を含む果実類、周防灘 まで伝播。
夜臼(ゆうす)式併行期には近畿地方へ伝播。西日本に突帯文土器期の水田(?)。
前期中葉
前期後半
弥生時代中期
紀元前2世紀
中期前半
金属器を使っての稲作が関東地方にも伝播していった。
宮城県 仙台市 富沢遺跡 水田跡(中期前半)。
青森県西津軽郡木造町亀ヶ岡遺跡 で大洞(おおぼら)A式期のモミ出土。
青森県八戸市是川(これかわ)中居遺跡、青森県三戸郡南郷村松石橋遺跡では遠賀川系土器の存在。
中期中葉
弥生文化が東北地に波及する。
最北端の水田跡は、青森県南津軽郡 田舎館村 垂柳(たれやなぎ)遺跡水田跡(中期中葉)。
中期後半
弥生時代後期
1世紀中頃から2世紀中頃
後期前半
後期中葉
後期後半