廃城以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 13:50 UTC 版)
戊辰戦争(北越戦争)によって長岡城が失われた後、跡地は「遊覧場」と呼ばれ一種の公園の役目を果たしていたが、鉄道敷設の際、停車場設置の候補地となり1898年(明治31年)、本丸跡の東部分に長岡駅が開業した。 二の丸跡には1902年に宝田石油本社が建てられ、この頃まで二の丸内濠が残っていたが、宝田石油本社の移転後、この地を長岡市に寄付し長岡市公会堂が建設され(1926年)、内濠はなくなった。二の丸跡はその後、長岡市公会堂(1926年)、長岡市厚生会館(1958年)と移り変わり、2012年からは長岡市役所本庁舎などを擁する複合交流施設「長岡市シティホールプラザアオーレ長岡」となっている。 このように長岡城の遺構は失われ、長岡城本丸跡の史跡案内標柱(長岡駅大手口)や長岡城址の碑(アオーレ長岡隣り)、そして城内町、「大手口」など地名・名称に面影が残るのみである。
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