平賀隆宗による城攻めとは? わかりやすく解説

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平賀隆宗による城攻め

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:47 UTC 版)

神辺合戦」の記事における「平賀隆宗による城攻め」の解説

年を越した天文18年1549年2月14日に、元就は元春・隆景を伴って山口向かい3月5日には大内義隆謁見している。この山口訪問同年5月まで続いているが、陶隆房備後から周防帰国しており、山口元就らと会談している。 一方2月には城麓で、4月には七日市籠屋口(固屋口、小屋口)で大きな戦い発生したが、神辺城持ちこたえていた。大軍率いて遠地長期陣することを懸念した平賀隆宗建言により、神辺城北方にある要害山に向城(要害山城)を築くと、平賀氏の手800残して陶や毛利などの大内主力軍は撤退する。なお、隆宗が城攻め一任求めた理由として、理興に対して少なからず遺恨があるためとしている。なお、隆宗が"陣中より"申し出たのは天文18年4月とされる(『大内氏実録』)。 山名理興平賀隆宗幾度も小規模な戦闘繰り返していたようで、『陰徳太平記』には、3日間に渡って行われた両者戦った様子を、"平賀杉原合戦之事"として書いている(ただし、合戦日を天文18年11月19日から3日間として描いており史実とは矛盾する)。 7月3日には平賀隆宗陣中病没するが、残った平賀勢は弔合戦として城攻め続行。ついに9月4日夜に、理興は神辺城捨てて逃亡したことで、神辺合戦落着した『陰徳太平記』第18巻には、長引く対峙決着つけようとした隆宗の申し込みにより、天文19年1550年10月13日弓矢勝負行って負けた理興が城を明け渡したという逸話書かれている(ただし、隆宗の死亡天文18年7月4日、理興の逃亡は同9月4日であり、実際に成り立たない)。

※この「平賀隆宗による城攻め」の解説は、「神辺合戦」の解説の一部です。
「平賀隆宗による城攻め」を含む「神辺合戦」の記事については、「神辺合戦」の概要を参照ください。

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