平賀隆宗による城攻め
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年を越した天文18年(1549年)2月14日に、元就は元春・隆景を伴って山口へ向かい、3月5日には大内義隆と謁見している。この山口訪問は同年5月まで続いているが、陶隆房も備後から周防へ帰国しており、山口で元就らと会談している。 一方、2月には城麓で、4月には七日市や籠屋口(固屋口、小屋口)で大きな戦いが発生したが、神辺城は持ちこたえていた。大軍を率いて遠地に長期帯陣することを懸念した平賀隆宗の建言により、神辺城の北方にある要害山に向城(要害山城)を築くと、平賀氏の手勢800を残して陶や毛利などの大内主力軍は撤退する。なお、隆宗が城攻めの一任を求めた理由として、理興に対して少なからず遺恨があるためとしている。なお、隆宗が"陣中より"申し出たのは天文18年4月とされる(『大内氏実録』)。 山名理興と平賀隆宗は幾度も小規模な戦闘を繰り返していたようで、『陰徳太平記』には、3日間に渡って行われた両者が戦った様子を、"平賀杉原合戦之事"として書いている(ただし、合戦日を天文18年11月19日から3日間として描いており史実とは矛盾する)。 7月3日には平賀隆宗が陣中で病没するが、残った平賀勢は弔合戦として城攻めを続行。ついに9月4日の夜に、理興は神辺城を捨てて逃亡したことで、神辺合戦は落着した。 『陰徳太平記』第18巻には、長引く対峙に決着をつけようとした隆宗の申し込みにより、天文19年(1550年)10月13日に弓矢の勝負を行って、負けた理興が城を明け渡したという逸話が書かれている(ただし、隆宗の死亡は天文18年7月4日、理興の逃亡は同9月4日であり、実際には成り立たない)。
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