峠の位置づけと歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:26 UTC 版)
律令制が布かれたころ、東山道が開削されて保福寺峠を通過したことから、重要な交通ポイントになった。しかし、江戸時代になって中山道が開通すると、保福寺峠を通る道は北国脇往還と呼ばれる松本と上田を結ぶローカル線の地位に退いた。しかし、松本藩主が参勤交代の経路につかったのは、この保福寺峠越えのコースで、北国街道から中山道を通って江戸に往復していた。 明治時代に入ると、中山道幹線が田中〜松本間で保福寺峠経由の経路で計画されたこともあったが、その後の情勢変化で頓挫した。1887年(明治20年)に長野県会は、松本-上田間につくる県道2号線を、現在の国道143号線の位置に決めた。この2つのトンネルを含むヨーロッパ技術を導入しての新路線の開通により、保福寺峠とそこを通る道路の重要性はさらに低下した。
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