岡井慎吾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/04 09:13 UTC 版)
| 人物情報 | |
|---|---|
| 別名 | 柿堂 |
| 生誕 | 1872年(明治5年)5月29日 |
| 死没 | 1945年(昭和20年)2月13日 |
| 出身校 | 福井師範学校 |
| 配偶者 | 岡井わさ |
| 学問 | |
| 時代 | 明治・大正・昭和時代 |
| 研究分野 | 漢字学、漢文学 |
| 主な業績 | 玉篇の研究 |
岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈明治5年〉5月29日- 1945年〈昭和20年〉2月13日[1])は、日本の教育者、漢文学者。柿堂と号した。研究論文の『玉篇の研究』で知られている。
概要
1872年に福井県丹生郡立待村(現・鯖江市)の地主の家に生まれる[2][3]。
父親を早くに亡くしたため母親の元に育ち[3]、福井師範学校を卒業後、福井中学校で教員心得となる。
1898年(明治31年)、教員検定試験で国語、漢文に合格し愛媛県西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)に転任[4]。
旧制石川県第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)教諭、石川県師範学校訓導[5]を歴任、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校・高等学校)に招聘されたのち、1915年(大正4年)に朝鮮平壌中学に赴任した[4]。
1922年(大正11年)、熊本医科大学予科教授に招聘され就任。
1927年(昭和2年)、『玉篇の研究』を京都大学に提出し、1931年(昭和6年)学位取得[4]。
1928年(昭和3年)、第五高等学校(後の熊本大学)の講師になる[4]。
1938年に広島高等師範学校(現:広島大学教育学部)の助教授に就任。
晩年は大東文化学院、東洋大学、東京文理科大学の講師を務め、1945年(昭和20年)2月13日、神奈川県大磯町の自宅にて心臓病のため死去。72歳(満74歳)歿[6]。
人物・評価
- 森鷗外の弟の森潤三郎は自著にて、鷗外が最も信頼した人間の一人として山田孝雄と大矢透、そして岡井の名を挙げていた。[7]
- 熊本市の自宅の隅に有七絶堂と名付けた書斎を設え、その書斎にて自身の文集の柿堂存稿を自費出版した[4]。
- 『玉篇の研究』は佚存書となった玉篇に関する総合的な研究論文として評価が高く、没後70年経った2010年代においてもその研究価値を評価されている[4]。
著作
- 『新体 日本文学史』金港堂、1902年。
- 『漢字の形音義』六合館、1916年。
- 『玉篇の研究』1927年。
- 『漢語と国語』明治書院、1933年。
- 『日本漢字学史』明治書院、1934年。
- 『柿堂存稿』有七絶堂、1935年。
- 『國語文化講座 第二巻 國語概論篇』山田孝雄・吉澤義則・新村出・時枝誠記・金田一京助・湯沢幸吉郎・松尾捨治郎・春日政治・岡井慎吾・岩淵悦太郞・神崎清・東條操・楳垣実・神保格・兼常清佐・波多野完治・松井簡治・亀井孝・島崎藤村・眞下三郎著、桜木俊晃編、朝日新聞社、1941年。
- 『大学新講義』東京開誠館、1941年。
作詞
- 朝日尋常高等小学校(現・越前町立朝日小学校)校歌
外部サイト
関連項目
参考文献
- 高田時雄「『玉篇』雑記」未名(中文研究会)、2015年、109-122頁。
脚注
- 岡井慎吾のページへのリンク