山本眞一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/03 03:51 UTC 版)
山本 眞一(山本真一、やまもと しんいち、1949年1月26日- )は、日本の教育学者。筑波大学名誉教授・広島大学名誉教授、桜美林大学名誉教授。
大阪府生まれ。1972年東京大学法学部卒業、文部省入省。高等教育局、初等中等教育局、1979年筑波大学大学院修士課程修了。1989年埼玉大学政策科学研究科助教授。1992年筑波大学助教授(教育学系・大学研究センター担当)。1996年「学術研究システムから見た大学院に関する研究-高度化と大衆化の中での大学院の成長条件の分析」で筑波大学より博士 (教育学)学位を取得[1]、同年教授、大学研究センター長[2]。2006年広島大学教授、07年同高等教育研究開発センター長。2012年桜美林大学大学院大学アドミニストレーション研究科教授[3]。2007年より2年間日本高等教育学会会長をつとめる[4]。 2012年研究・技術計画学会(現 研究・イノベーション学会)会長。
著書
- 『大学の構造転換と戦略』ジアース教育新社 2002
- 『大学の構造転換と戦略 pt.2』ジアース教育新社 2003
- 『知識社会と大学経営』ジアース教育新社 2006
- 『転換期の高等教育 より良い大学づくりのために』ジアース教育新社 2008
- 『大学事務職員のための高等教育システム論 より良い大学経営専門職となるために(新版)』東信堂 2012
- 『質保証時代の高等教育〈上〉経営・政策編』ジアース教育新社 2013.7[3]
- 『質保証時代の高等教育〈下〉教育・研究編』ジアース教育新社 2013.9
共編著
- 『大学改革の現在』有本章共編著 東信堂 講座「21世紀の大学・高等教育を考える」 2003
- 『SD (スタッフ・ディベロップメント) が変える大学の未来 大学事務職員から大学経営人材へ 筑波大学大学研究センター短期集中公開研究会より』編 文葉社 2004
- 『SD (スタッフ・ディベロップメント) が育てる大学経営人材 大学冬の時代、大学職員は何をすればよいのか? 筑波大学大学研究センター短期集中公開研究会より』編 文葉社 2004
- 『新時代の大学経営人材 アドミニストレーター養成を考える』村上義紀,野田邦弘共編著 ジアース教育新社 2005
- 『SDが支える強い大学づくり 大学職員は何を学び、それをどう生かすか? 筑波大学大学研究センター短期集中公開研究会より』編 文葉社 2006
- 『大学のマネジメント 政策経営プログラム』田中義郎共編著 放送大学教育振興会 2008
- 『大学マネジメント論』田中義郎共著 放送大学教育振興会 2014
脚注・出典
- ^ NAID 500000138633
- ^ 『現代日本人名録』2002年
- ^ a b 著者紹介 紀伊國屋書店.2024年2月11日閲覧。
- ^ 前会長挨拶 (PDF 337KB )ニューズレター No.23 2009年7月 / 日本高等教育学会.2024年2月11日閲覧。
外部リンク
- 山本 眞一 / 桜美林大学 - ウェイバックマシン(2015年9月1日アーカイブ分)
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山本真一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/27 00:30 UTC 版)
基本情報 | |
---|---|
国籍 | ![]() |
出身地 | 宮崎県日南市 |
生年月日 | 1946年4月5日(78歳) |
身長 体重 |
175 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1965年 ドラフト16位 |
初出場 | 1966年 |
最終出場 | 1969年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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山本 真一(やまもと しんいち、1946年4月5日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
来歴・人物
宮崎商では2年生時の1963年、三塁手として夏の甲子園県予選に出場する。決勝に進出しエース清俊彦を擁する高鍋高に辛勝、夏の甲子園への出場を決める。大会では1回戦で函館工を降すが、2回戦で甲府商の大石勝彦、堀内恒夫の継投に抑えられ敗退[1]。1年上のチームメートに捕手の高橋博、中堅手の小川亨がいた。
翌1964年には三番打者として夏の甲子園に連続出場。1年下のエース水谷実雄が好投し、1回戦で旭川南高に完封勝利、2回戦でも滝川高の芝池博明を打ち崩し準々決勝に進出。ここでも熊谷商工に逆転勝ちし準決勝に進む。しかし優勝した高知高の光内数喜(芝工大-鐘淵化学)に0-1で完封を喫した[1]。この大会では4試合に出場し16打数3安打2打点、宮崎商では通算打率.367を記録している。
卒業後は専修大学へ進むが、家庭の事情から中退して母校でコーチをしていた。1965年ドラフト会議で広島カープから16位指名され、広島へ入団した。1年目の1966年から一軍に上がり、1969年には8月に二塁手として初先発出場。しかし実績を残せず、同年限りで引退した。引退後は広島のスコアラーをつとめた。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1966 | 広島 | 5 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1967 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
1969 | 3 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:3年 | 9 | 7 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 |
背番号
- 44 (1966年 - 1969年)
脚注
関連項目
固有名詞の分類
- 山本眞一のページへのリンク