山手側の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 13:56 UTC 版)
一方、山手側では、移転構想当時の1952年(昭和27年)7月3日に市道が都市計画決定されていた。この道路は計画では駅予定地から山手方面に延びて明礬温泉に至る延長5,506mの市道で、駅予定地から石垣中央通りまでの約400mの区間には片側2車線の道路と幅広の中央分離帯が整備された。この道路には計画された新駅の名称を織り込んで、新別府駅明礬線(通称:観光港大通り)という名称が付けられている。さらに、1963年(昭和38年)12月28日には4,000m2の駅前広場が都市計画決定され、整備された。 このように、駅予定地を挟んで観光港及び山手方向にはそれぞれ市道が整備され、特に山手側の道路は観光港大通りという通称で呼ばれているが、実際には日豊本線に阻まれて観光港には直通しておらず、観光港側とは狭隘な吉弘踏切で結ばれているのみであった。 また、新駅の予定地付近では現在でも線路と側道の間に空間が広くとられており、新駅設置用の敷地が確保されていたことが分かる。
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