山国隊と鳥取藩の関係
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上記のように、かつての荘園「山国庄」の時代と同様に朝廷から正式に官位を授かるための復活運動を行う際、朝廷とのコネを必要とした。そのため、「山国庄」の名主の中で代表格の家筋である水口市之進(水口備前守)の実弟水口正顕が因幡鳥取藩京都上屋敷の呉服所役人若代長左衛門の養子となって若代四郎佐衛門という人物が京都にいたので、慶応2年頃彼を頼った。若代四郎佐衛門の尽力で翌慶応3年12月10日、従五位下の官位をいただくことに成功した。水口市之進たちはその後も因幡鳥取藩邸に出入りしていた。上記のように、慶応4年1月11日に農兵隊「西軍」「東軍」が結成され、同18日、「西軍」が因幡藩家老荒尾駿河守に連れられて参与役所に出頭したとき、議定の岩倉具視から「諸君は因幡藩に属して「山国隊」と呼びしばらく待機せよ」と指示された。慶応4年2月13日、「山国隊」は東山道軍の鳥取藩部隊に加わって京都を出発した。一見して山城国山国と因幡鳥取藩とは無関係のようだが、以上のような経緯がある。
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