小谷決戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 02:11 UTC 版)
越前を制圧した信長は、織田軍の一部を越前での戦後処理に留めて小谷城へと引き返し、26日に虎御前山の本陣へ帰還すると、全軍に小谷城の総攻撃を命じた。翌27日、木下秀吉率いる3000の兵が夜半に長政の拠る本丸と長政の父・浅井久政が籠る小丸との間にある京極丸(兵600)を占拠した。この時、三田村定頼、海北綱親らは討死した。これで、父子を繋ぐ曲輪を分断することに成功した。やがて小丸への攻撃が激しくなり、800の兵を指揮していた久政は追い詰められて小丸にて、浅井惟安らと共に自害した。 その後、本丸(長政以下兵500)はしばらく持ちこたえ、長政はその間に嫡男万福丸に家臣を付けて城外へ逃がす。さらに正室のお市の方を3人の娘(浅井三姉妹)と共に織田軍に引き渡した。その最後の仕事を果たしたのち、9月1日、袖曲輪の赤尾屋敷内で重臣の赤尾清綱、弟の浅井政元らと共に長政は自害して小谷城は落城した。この日をもって、北近江の戦国大名浅井氏は亮政から3代で滅亡したのである。ただ、雨森清貞は、逃亡した。
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