小県蚕業学校・上田蚕糸専門学校
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「三吉米熊」の記事における「小県蚕業学校・上田蚕糸専門学校」の解説
留学中の1890年(明治23年)12月から小県郡長中島精一により蚕業学校の設立が計画されており、1892年(明治25年)2月27日長野県に戻ると、中島郡長と南佐久郡井出喜重の要請を快諾し、4月1日小県郡立蚕業学校校長兼教頭の任を引き受けた。8月4日教員免許を取得し、蚕体病理、生理、土壌、肥料、化学、物理などの主要科目を自ら受け持った。 蚕業学校長を務める傍ら、文部省により長野県に蚕業専門学校の設立を命じられ、県視学与良熊太郎と候補地を極秘調査して上田を選定、1911年(明治44年)1月17日上田蚕糸専門学校講師、9月19日教授となった。1910年(明治43年)1月15日から3月31日まで小県郡立上田高等女学校教授を兼ねた。 1911年(明治44年)春、同窓の帝国大学教授斎藤万吉を通じて古在由直から国立原蚕種製造所長への就任を請われたが、中島郡長の必死の引き留めにより思い止まった。 1919年(大正8年)7月15日博士会の推薦により農学博士を授与された。
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